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感動に理由を求めることに違和感を覚える人が増えてきている

感動に理由を求めることに違和感 既成概念を打破する

この記事を読むのに必要な時間は約 7 分です。

いきなりですが、あなたに質問です。

最近見て感動した映画は何ですか?
またその理由は?

多くの人は映画のタイトルや感動した理由をスラスラと答えることができるでしょう。

ここで追加の質問です。

そうやって「なぜその映画に感動したのか」を答えていることに違和感を感じませんか?

実は私はものすごく違和感を感じるんです。
その理由も含めて、今回は「感動に理由を求める」ことについて考えてみましょう。

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世の中「なぜ?」という問いかけに溢れかえっている!

これは日本だけではないかもしれませんが、世の中には「なぜ」という問いかけに溢れています。

たとえばTVのワイドショーを観ていると、なにか悪いことをしでかした犯人に対し「なぜそのような犯行におよんだのでしょうか」と疑問を投げかけ、理由を探ろうとします。

近所の公園に行ってみると小さな子供が泣いています。
「どうしたの?なんで泣いてるの?」
と、泣いている理由を尋ねます。

それ以外にも、

花火を観るとなぜ感動するのか?
ラグビーの試合を観るとなぜ感動するのか?
映画「コーヒーが冷めないうちに」を観るとなぜ4回泣けるのか?
クィーンのボヘミアン・ラプソディを聴くとなぜ感動するのか?
感動するとなぜ鳥肌が立つのか?
親しい人が亡くなるとなぜ悲しいのか?

ちょっと挙げてみただけでも「感動の理由」を訊いている質問のなんと多いことか!

実はこれにはちゃんとした理由があるんです。

すぐに「なぜ?」と訊きたくなる理由とは?

その理由を端的に答えれば「納得したい」からです。

私たちは小さい頃から感動したときにその理由を説明するよう求められてきました。
なぜ泣くのか、なぜ怖がるのか、なぜ駄々をこねるのか、なぜなぜなぜなぜ・・・

ある小学校では子供たちにその日に起きた出来事を短い文章にして書かせるそうです。
ただ起きたことを書くだけではダメで、なぜなら、を必ず書き添えなければいけないんだそうです。

今日、校庭の隅に咲いていたタンポポの花が綺麗だった。
「なぜなら」黄色い花がたくさん咲いていたからです。

これには思いきり違和感爆発です(笑)

何かを観て何かを感じた。
感じたことに果たして理由は必要なんでしょうか?
タンポポの花を見て綺麗と感じた。

その思いに「理由」は必要なんでしょうか?

私たちはこうした教育を延々と受け続けてきています。
小学校でも中学校でも高校でも大学でも、そして社会に出てからもさまざまな場面で思ったり感じたりしたことについて理由を求められる。

なぜ子供はすぐ泣くのか?
なぜ社会のルールを守ることが大事なのか?
なぜ人の嫌がることをしてはいけないのか?
なぜ夕焼けは赤いのか?
なぜ理不尽なことされると腹が立つのか?
なぜ感動すると涙が出るのか?

世の中のあらゆることに理由を求められる・・・その理由は「納得したい」から。

やはり違和感を感じます。

本当に「理由」は必要か

この「納得したい」という欲求は、裏返すと「納得できないものは認めない」という思考に繋がっていきます。

会社では上司から説明を求められ説明するも「そんな説明じゃ納得できない、却下」とか言われてしまう。

他に好きな人が出来たから別れようと言われても納得できない、だから分かれない。

幽霊の存在について納得できる説明がない、だから幽霊なんていない・・・

なんでもかんでも理由を求める。
でも世の中、説明できないことなんて山ほどあるでしょう?
そして説明できないことが、あたかも悪いことのように思われている風潮すらあります。

日がな一日、寝ている犬を見て「犬になりたいな」と思う・・・
この気持ちに「なんで?」と理由を求めることに何の意味があるのでしょう?

映画を見て感動した。
なぜ感動したのか、それを知ることに何の意味があるのでしょう?

感動することに理由なんているんでしょうか?
理由なんてどうでも良いと思いませんか?

なぜなぜ分析の罪

製造現場などでよく行われる要因分析の手法に「なぜなぜ分析」というものがあります。

これは、何か問題が起きたときに「なぜ」それが起きたのかを繰り返し探るというものです。

製造過程で欠陥が見つかったとします。
なぜその欠陥が発生したのかを探り原因を特定します。
そしてその原因がなぜ発生したのか、原因の発生原因を探ります。
これを繰り返していくことで本当の要因が姿を現す、という手法です。

これはある限られた分野に関しては有効なものかもしれませんが、最近ではさまざまな分野でこのなぜなぜ分析を応用しようという動きもあるようです。

たとえば営業部門とか。

ある客先でA社とB社が競合し、A社が採用されたとします。
そしてお客さんがB社ではなくA社に決めた理由が「A社の営業マンの方が信頼できそうだったから」だったとします。

これ、B社で「なぜA社の営業マンの方が信頼出来そうに見えたのか」をなぜなぜ分析したらどうなると思いますか?

まあ、それっぽい原因は出てくることでしょう。
でもそれに何の意味があるのでしょう?
その原因は他の会社の別の営業マンにも通用すると思いますか?

私が以前いた会社の部長は「通用する」と言いきりました。
それがなぜなぜ分析だ、と。

ふたたび違和感(笑)

世の中には納得できないことがあってもいいと思うんです。
なんでもかんでも「なぜ」かを突き詰める風潮には明確に「ノー」といいたい。
自分の考えが相手に納得されなくても良いじゃないですか。

まとめ

今回は「感動に理由を求める」ということについて考えてみました。

感動とは「感じて」「動く」ことです。
なにが感じて動くのか、心が、です。

心はさまざまな出来事、ものごとに触れるたびにユラユラと動きます。
その揺さぶりが激しければ喜怒哀楽に現れます。

天気の良い日に高原に行って風に吹かれているとき、不意に涙が頬を伝って流れ落ちることもあるでしょう。

なぜ涙が出てきたのだろう、と考えることに果たして意味があるのでしょうか?

もちろん、意味を追求しても良いと思います。
思いますが、意味を追いかけることなく感情の赴くままにその瞬間を味わっているだけというのも決して悪くないと思うのです。

少なくとも私はそのように生きていきたいな、と思っています。

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